硝子戸の中

年があけて、何とも忙しい。春までの検査のためせっせと船の修理をしている。狭いみちを材料片手にえっちらおっちら。電源は発電機からだから作業箇所と位置。汚れないように各人が重ならないような配置を段取るのも一苦労である。

おおよそ限られた作業時間を惜しむばかりに一旦身につけた防寒着と作業着を脱ぐのもためらい休憩も忘れ一目散に作業をすすめる。

塗料の硬化時間とFRPの硬化時間も相まって益々加速度的に進むのである。

作業しにくい手袋やマスクながら淡々と作業が続くのは、次回いつ作業ができるか予定がつかない不安感よりも、これを業者や専門家に任せたときの手間賃が頭に浮かぶ 助平根性からだろう。

私や父がペース配分や完成のイメージを予想しながらの作業で見通しつくが、慣れない叔父はペースが掴めずてんてこ舞い。

一応 作業前に段取りと見込みを説明するが、サラリーマンだった叔父は私らの説明を身体で把握することは、まだ難しいようだ。


成人の日の降雪は、家にカンヅメであったが 休みらしいやすみは、先日がはじめてであった。(諸事情で修理も仕事もなし)



目覚めるのは、いつもの時間ながら まだ布団にいられる幸せ。


ふと ラジオからは、平松洋子さんを紹介する中島朋子さんの声。
沢村貞子さんの献立日記から空白の四日間の重要性〜何度も手に取り贈り物としても幾人にも手渡した、夏目漱石の『硝子戸の中』の二作品を挙げていた。

沢村さんの著作が意外に多い割に私は 献立日記くらいしか目を通しておらず 改めて読みたくなる。

夏目漱石の方といったら はじめて知った作品というありさま。

早速
書店の開店を待って文庫を求める。

こころ・道草・明暗 を著した頃の晩年期に朝日新聞で連載されたエッセイ。

晩年といっても まだ40歳前後であるが、胃の病気で床に伏せているのが繰り返す日々。
書斎からの眺めの描写から次第に 飼い犬や住んだ家の回想から自らの昔ばなしへ。

当初は現世の先生呼ばわりされる疎ましさから、書斎の卓上からの空想旅行へ漂う感じが心地好く 読み進めてる。









絵画の話題で若冲がでてきた。大正時代に既に評価の対象だったのかなぁ

空想旅行が 煎餅を携えて訪ねてくる叔父、喜いちゃん、晩年の両親から生まれた末っ子の自身の思い出。硝子戸の中から縁側に出たところで、真っ白な光を浴びたような清々しさに満ち溢れているような感じだ。冒頭の鬱血したような悶々たる日々とはまるで逆転している。

頭に浮かんだ事をただ書き連ねているような漱石と一緒にうたたねをしているような気分。

こんな文章で連載を読んでいた当日の人々はどんな気持ちだったのかな?